五月五日のせいくらべ

「脊(せい)くらべ」(作詞:海野厚 作曲:中山晋平)
  柱のきずはをととしの
  五月五日の脊(せい)くらべ
  粽(ちまき)たべたべ兄さんが
  計(はか)つてくれた脊(せい)のたけ
  きのふくらべりや何(なん)のこと
  やつと羽織(はおり)の紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりやすぐ見える
  遠いお山も脊(せい)くらべ
  雲の上まで顔だして
  てんでに脊(せい)伸してゐても
  雪の帽子(ぼうし)をぬいでさへ
  一はやつぱり富士の山


「せいくらべ」の作詞者・海野厚は1896年(明治29年)8月12日、静岡市曲金で7人兄弟の長男として生まれた。
「柱のきずはおととしの 五月五日のせいくらべ・・・」
どうしてきずは一昨年で、昨年のきずはないのか。
そこには、結核と闘い死に至った兄の物語があった。

海野春樹(88)(元大阪芸術大教授)が中学生になったばかりの1925年(大正14年)5月20日、兄の厚(本名・厚一)はこの世を去った。

 その朝、春樹少年に母親が頼み事をした。「春ちゃん、朝ごはんを作ったから、厚兄さんの所に届けてちょうだい」。春樹より17歳年上の兄・海野厚(1896〜1925年)は近所で結核の病床にあった。だが弟は不機嫌。母の頼みを聞かず、家を出てしまった。静岡から東京・目黒に越してきたばかり。春樹少年の気持ちは華やかで見るものすべてが新鮮な都会の風景に向いていたのだ。

大久保あたりをうろついていた午前10時ごろ兄が死んだ。28歳と10ヶ月の命だった。「なぜあの時、弁当を届けなかったか。」春樹の心には悔やんでも悔やみきれない気持ちが残ったという。

厚は中学(旧制)卒業後、上京し早稲田大学文学部へ入学した。
最初は俳人志望であったが、童謡雑誌「赤い鳥」へ童謡詩が掲載されるようになり、童謡作詞家へと転身してゆく。
厚はたびたび故郷に帰って弟妹の背を測ってやったといわれる。しかし昨年は帰省することができなかった。東京で肺結核にかかり病床の身であったからだ。厚は19歳で故郷・静岡市を離れて上京しているが、この詞が「おととし」なのは、作詞当時、実際に2年間帰郷できなかった事実があったからである。

東京で俳句や童謡の世界にのめり込み、雑誌編集などに没頭していた厚は、病弱だったこともあり1919年を最後に帰郷していない。中山晋平が曲をつけてレコード化されたのが1923年5月だから、作詞したと推定される1922年か23年、詩人はちょうど東京で「静岡に住む弟は、この2年でどれだけ大きくなったろう?」と想像する状況にあったわけだ。

モデルが末弟の春樹だったという根拠は、歌詞の6行目「羽織の紐(ひも)のたけ」にある。長兄の厚には3人の妹と3人の弟がいたが、春樹氏によれば「末弟の私は小学生3、4年生で、ちょうど羽織の紐が気になる年ごろだった。そして、その年齢の子供が2年で伸びる身長が、まさに羽織の紐の長さと一致するんです」。
19歳で上京した厚にとって、17歳下の春樹は特別な弟だった。共に暮らす期間が短く、弟の成長を帰省の度の楽しみにしていた。それだけに2年も帰れなかったことが「弟も寂しがっているだろう」という気持ちをつのらせ、『背くらべ』創作へとつながったのだという。

一番の作詞から4年経って、中山晋平は厚を元気付けるために二番の詩を作らせた。この歌は真実を背景にしているだけに、実は1番だけで完結していたが、レコードに吹き込む際、中山晋平の要望で二番が付け加えられた。『背くらべ』掲載の「子供達の歌第3集」が出版された時、厚自身が「場合によっては1節の歌だけで十分と思ひます」と注釈をつけている。

病床で二番の詩を書き終えた厚だったが、1925年5月20日、天才は逝った。28才の短い生涯だった。富士山を見ることも、大好きな弟妹たちのせいくらべもしてあげることも二度とできなかったのである。

追加された2番は単なる空想ではない。静岡市曲金の厚の生家からは、実際に富士山が望めた。そして左に見える龍瓜(りゅうそう)山と右にそびえる富士山は、現実に背くらべをしていたのだ。

厚の生家に近く、彼も通った静岡市の西豊田小学校の校舎からは、富士山と龍瓜(りゅうそう)山の背くらべを昔のまま望むことができる。厚らが通った西豊田小学校の校舎わきには、「せいくらべ」の碑と厚の顔が描かれた大きな絵が掲げられているという。
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